
今年の夏も、どうやら容赦のない暑さになりそうな気配が漂っている。 この記事を書いているのがまだ5月の末だというのに、最高気温が30度を超える日が出てきた。オフィスの窓から外を眺めるだけで、じっとりとした空気の重さが伝わってくるようだ。
インフラ系の会社に身を置く人間として、この時期の「暑さ」は単なる季節の移り変わりではない。明確な「リスク」だ。 特に昨年からは、法律によって企業への熱中症対策が強化された。我が社でも、炎天下の最前線で働く現場社員のために、スポーツドリンクなどの飲料を配付したり、現場にミスト扇風機を設置したり、体調不良時の緊急報告体制を整えたりと、できる限りの対策を講じてきた。
「今年もそろそろ、具体的な追加対策を詰めないとな」
そう考えていた矢先、先月の社内会議で、あるオフィス勤務の従業員から思いがけない申し出があった。
「現場で働く社員たちのために、熱中症対策の飲料を個人として寄贈したいんです」
話を聞くと、動機はとても純粋なものだった。 「自分たちは空調の効いた快適な室内で仕事をしている。でも、あの炎天下の現場で命がけでインフラを支えてくれている仲間がいる。同じ会社の社員として、何か少しでも力になりたい」
正直に言えば、俺個人としては「オフィスワークにはオフィスワークなりの大変さやストレスがあり、現場には現場の苦労がある。一概にどちらが恵まれている、大変だと比較するものではない」という思いもあった。 しかし、その垣根を越えて「仲間のために何かしたい」と考え、自腹を切ってまで行動を起こそうとする彼女のその気持ち自体は、文句なしに尊い。
「素晴らしいご提案ですね。ぜひ、お願いします」
会議の場は温かい空気に包まれ、話はトントン拍子に進んだ。 だが、問題はここからだった。
噛み合わない歯車
マネジャーとしての俺の役割は、そのありがたい善意を「最大の効果」として現場に届けることだ。 つまり、現場が「本当に欲しいもの」を、「欲しいタイミング」で、「必要な数量」受け取れるようにすること。それが、贈る側にとっても、受け取る側にとっても一番幸せな結末になるはずだった。
さっそく俺は、現場のリーダーに連絡を取り、現在の在庫状況や、今何が一番求められているのかのヒアリングを始めた。しかし、寄贈を申し出た彼女の熱量は、俺の想像を遥かに超えていた。 彼女にとっては、「今すぐ行動すること」こそが善意の証明だったのだろう。調整のために少し時間がかかることが、もどかしくて仕方がなかったようだ。
「現場が困っているかもしれないのに、何をのんびり調整しているのか」
彼女の目には、俺の手続きが官僚的なストッパーに見えたのかもしれない。俺への相談がないまま、彼女の行動は一気に加速した。
先週末のことだ。彼女は某ディスカウントストアへ足を運び、自力でミネラルウォーターと麦茶を大量に箱買いし、そのまま現場へと直接持ち込んでしまったのだ。
「現場に届けておきました!」
事後報告を受けた俺は、一瞬言葉を失ったが、すぐに現場の状況を想像して胃がキリキリと痛み出した。そして、その予感は見事に的中することになる。
結果として、現場はどうなったか。
まず、予告なしに持ち込まれた大量の段ボール箱を「保管する場所」がどこにもなかった。狭い現場事務所の通路は飲料の箱で埋まり、動線が塞がれた。 さらに致命的だったのは、中身のミスマッチだ。 現場が本当に欲していたのは、汗で失われる塩分や水分を効率よく補給できる「スポーツドリンク」だった。水分補給の準備は現場ごとにある程度すでに整っており、ただの水や普通の麦茶は、今更大量にもらっても「売れ行きはすこぶる低調」という状態になってしまったのだ。
現場の人間からすれば、相手の善意が100%分かっているだけに、「場所を取って邪魔です」「これじゃない方が良かったです」とは口が裂けても言えない。 せっかくの美しい善意が、現場にとっては言葉を選ばずに言えば「ありがた迷惑」という、なんとも歪でデリケートな負担に変わってしまった瞬間だった。
災害ボランティアと「不要な千羽鶴」
この光景を見たとき、俺の脳裏に、昔どこかで目にしたある映像が鮮明に蘇ってきた。
大きな大規模災害が起こったとき、被災地の人々が困惑しながら語っていたインタビューのシーンだ。 「全国から善意で、たくさんの服や靴、日用品が送られてくるんです。でも、サイズが合わなかったり、今の時期に必要のないものだったりして……。向こうで不要なものは、当然、被災地であるこっちでも不要なんです。それなのに、仕分けや処分のために貴重な人手が割かれて、本当に困っています」
あるいは、被災地に送られる「千羽鶴」の議論にも似ている。 贈る側は「励ましたい」「祈りを届けたい」という純粋な善意で折る。しかし、明日食べるものや雨風をしのぐ場所に困っている被災地において、大量の千羽鶴は保管場所にも処分にも困るアイテムになってしまうことがある。
「良かれと思ってすること」の難しさは、ここにある。 自分が「良いことだ」と信じて疑わない行為が、受け手にとっても同じように「良いこと」として受け入れられるとは限らないのだ。
もし本当に、相手の状況が分からないけれど助けになりたいのであれば、何にでも姿を変えられる「お金(寄附)」の方が、よっぽど相手を救う手段になり得る。お金であれば、現場がその時々で一番必要なものを、必要な量だけ自分たちで調達できるからだ。
しかし、なぜ人は「物」を直接贈りたがるのだろうか。
主語は「自分」か、それとも「相手」か
そこには、人間が持つ避けがたい心理が隠されているように思う。
俺たちは何かを贈るとき、無意識のうちに「自分主体」で行動してしまいがちだ。 「これを贈ったら喜ぶだろう」 「これをしている自分は、良いことをしている」
ひねくれた見方かもしれないが、相手のニーズやタイミングを無視して強行されるギブは、どこか「贈るという行為をしている自分」に酔ってしまっている側面がないだろうか。主語が「相手が助かるか」ではなく、「自分がスッキリするか」「自分が今すぐ役に立ちたいか」にすり替わっているのだ。
ビジネスにおけるコミュニケーションでも、全く同じことが言える。 プレイングマネジャーとして部下と向き合うとき、俺たちはよく「良かれと思って」アドバイスをする。 「俺の若い頃はこうやって乗り越えた」 「こういうときは、こう動くのが正解だ」
だが、それらは本当に目の前の部下が「今、そのタイミングで欲している言葉」なのだろうか。ただ上司の側が「アドバイスをして、部下を導いている自分」に満足したいだけではないだろうか。 相手のキャパシティや、抱えている本当の課題を見極めずに投げ込まれたアドバイスは、狭い現場事務所を塞いだ「大量の水と麦茶の箱」と同じになってしまう。
何かアクションを起こすとき、俺たちは立ち止まって、自分を徹底的に客観視する必要がある。 「この行動の主語は、本当に相手になっているか?」と。
「ゼロから1」へ、掛け算のための足場
今回の件は、結果として苦いものになってしまった。 だけど、俺は彼女の行動をただ批判して終わらせるつもりはない。なぜなら、冒頭でも書いた通り、彼女の「何かしたい」という初期衝動そのものは、間違いなく本物で、尊いものだったからだ。
仕事でも、副業でも、あるいは今回のような社内の取り組みでも、何もない「ゼロ」の空間から「1」という行動を生み出すのが一番エネルギーがいる。 大半の人は、頭の中で「現場は大変そうだな」「何かしてあげたいな」と思っても、日々の忙しさに紛れて何もしない。その中で、実際に財布を開き、お店に足を運び、重い箱を運んだ彼女の行動力は、紛れもない「1」だ。
一度「1」にさえなれば、あとは軌道修正という名の「掛け算」ができる。 「次は事前に現場の声を聴いてから動こう」 「次は熱中症対策の現金を会社に寄付する形にしよう」 そうやって仕組みを整えていけば、彼女の高いエネルギーは、いつか本当に現場を救う大きな価値に変わるはずだ。
ゼロのまま文句を言う人間になるな。打席に立って空振りした人間を、ただ責めるな。 大切なのは、その打席を次にどう活かすかだ。
今週のオフィスは、少し気まずい空気が流れるかもしれない。 マネジャーとしての俺の本当の仕事は、現場の混乱をそっと収めつつ、彼女のプライドを傷つけないように「次回の正しいギブのアプローチ」へと、彼女の視点を優しく、かつロジカルに切り替えてあげることなのだろう。
よく冷えたオフィスのデスクで、そんなことを考えながら、俺は次のミーティングの資料に目を落とした。 今年の夏は、まだまだ始まったばかりだ。





