東雲のころ-気随気ままの日記-

東雲(しののめ)と読みます。制限なく好きなこと書いてます。

「相手のため」という呪縛と、本当に価値あるギブの話。

今年の夏も、どうやら容赦のない暑さになりそうな気配が漂っている。 この記事を書いているのがまだ5月の末だというのに、最高気温が30度を超える日が出てきた。オフィスの窓から外を眺めるだけで、じっとりとした空気の重さが伝わってくるようだ。

インフラ系の会社に身を置く人間として、この時期の「暑さ」は単なる季節の移り変わりではない。明確な「リスク」だ。 特に昨年からは、法律によって企業への熱中症対策が強化された。我が社でも、炎天下の最前線で働く現場社員のために、スポーツドリンクなどの飲料を配付したり、現場にミスト扇風機を設置したり、体調不良時の緊急報告体制を整えたりと、できる限りの対策を講じてきた。

「今年もそろそろ、具体的な追加対策を詰めないとな」

そう考えていた矢先、先月の社内会議で、あるオフィス勤務の従業員から思いがけない申し出があった。

「現場で働く社員たちのために、熱中症対策の飲料を個人として寄贈したいんです」

話を聞くと、動機はとても純粋なものだった。 「自分たちは空調の効いた快適な室内で仕事をしている。でも、あの炎天下の現場で命がけでインフラを支えてくれている仲間がいる。同じ会社の社員として、何か少しでも力になりたい」

正直に言えば、俺個人としては「オフィスワークにはオフィスワークなりの大変さやストレスがあり、現場には現場の苦労がある。一概にどちらが恵まれている、大変だと比較するものではない」という思いもあった。 しかし、その垣根を越えて「仲間のために何かしたい」と考え、自腹を切ってまで行動を起こそうとする彼女のその気持ち自体は、文句なしに尊い。

「素晴らしいご提案ですね。ぜひ、お願いします」

会議の場は温かい空気に包まれ、話はトントン拍子に進んだ。 だが、問題はここからだった。

 

噛み合わない歯車

マネジャーとしての俺の役割は、そのありがたい善意を「最大の効果」として現場に届けることだ。 つまり、現場が「本当に欲しいもの」を、「欲しいタイミング」で、「必要な数量」受け取れるようにすること。それが、贈る側にとっても、受け取る側にとっても一番幸せな結末になるはずだった。

さっそく俺は、現場のリーダーに連絡を取り、現在の在庫状況や、今何が一番求められているのかのヒアリングを始めた。しかし、寄贈を申し出た彼女の熱量は、俺の想像を遥かに超えていた。 彼女にとっては、「今すぐ行動すること」こそが善意の証明だったのだろう。調整のために少し時間がかかることが、もどかしくて仕方がなかったようだ。

「現場が困っているかもしれないのに、何をのんびり調整しているのか」

彼女の目には、俺の手続きが官僚的なストッパーに見えたのかもしれない。俺への相談がないまま、彼女の行動は一気に加速した。

先週末のことだ。彼女は某ディスカウントストアへ足を運び、自力でミネラルウォーターと麦茶を大量に箱買いし、そのまま現場へと直接持ち込んでしまったのだ。

「現場に届けておきました!」

事後報告を受けた俺は、一瞬言葉を失ったが、すぐに現場の状況を想像して胃がキリキリと痛み出した。そして、その予感は見事に的中することになる。

結果として、現場はどうなったか。

まず、予告なしに持ち込まれた大量の段ボール箱を「保管する場所」がどこにもなかった。狭い現場事務所の通路は飲料の箱で埋まり、動線が塞がれた。 さらに致命的だったのは、中身のミスマッチだ。 現場が本当に欲していたのは、汗で失われる塩分や水分を効率よく補給できる「スポーツドリンク」だった。水分補給の準備は現場ごとにある程度すでに整っており、ただの水や普通の麦茶は、今更大量にもらっても「売れ行きはすこぶる低調」という状態になってしまったのだ。

現場の人間からすれば、相手の善意が100%分かっているだけに、「場所を取って邪魔です」「これじゃない方が良かったです」とは口が裂けても言えない。 せっかくの美しい善意が、現場にとっては言葉を選ばずに言えば「ありがた迷惑」という、なんとも歪でデリケートな負担に変わってしまった瞬間だった。

 

災害ボランティアと「不要な千羽鶴」

この光景を見たとき、俺の脳裏に、昔どこかで目にしたある映像が鮮明に蘇ってきた。

大きな大規模災害が起こったとき、被災地の人々が困惑しながら語っていたインタビューのシーンだ。 「全国から善意で、たくさんの服や靴、日用品が送られてくるんです。でも、サイズが合わなかったり、今の時期に必要のないものだったりして……。向こうで不要なものは、当然、被災地であるこっちでも不要なんです。それなのに、仕分けや処分のために貴重な人手が割かれて、本当に困っています」

あるいは、被災地に送られる「千羽鶴」の議論にも似ている。 贈る側は「励ましたい」「祈りを届けたい」という純粋な善意で折る。しかし、明日食べるものや雨風をしのぐ場所に困っている被災地において、大量の千羽鶴は保管場所にも処分にも困るアイテムになってしまうことがある。

「良かれと思ってすること」の難しさは、ここにある。 自分が「良いことだ」と信じて疑わない行為が、受け手にとっても同じように「良いこと」として受け入れられるとは限らないのだ。

もし本当に、相手の状況が分からないけれど助けになりたいのであれば、何にでも姿を変えられる「お金(寄附)」の方が、よっぽど相手を救う手段になり得る。お金であれば、現場がその時々で一番必要なものを、必要な量だけ自分たちで調達できるからだ。

しかし、なぜ人は「物」を直接贈りたがるのだろうか。

 

主語は「自分」か、それとも「相手」か

そこには、人間が持つ避けがたい心理が隠されているように思う。

俺たちは何かを贈るとき、無意識のうちに「自分主体」で行動してしまいがちだ。 「これを贈ったら喜ぶだろう」 「これをしている自分は、良いことをしている」

ひねくれた見方かもしれないが、相手のニーズやタイミングを無視して強行されるギブは、どこか「贈るという行為をしている自分」に酔ってしまっている側面がないだろうか。主語が「相手が助かるか」ではなく、「自分がスッキリするか」「自分が今すぐ役に立ちたいか」にすり替わっているのだ。

ビジネスにおけるコミュニケーションでも、全く同じことが言える。 プレイングマネジャーとして部下と向き合うとき、俺たちはよく「良かれと思って」アドバイスをする。 「俺の若い頃はこうやって乗り越えた」 「こういうときは、こう動くのが正解だ」

だが、それらは本当に目の前の部下が「今、そのタイミングで欲している言葉」なのだろうか。ただ上司の側が「アドバイスをして、部下を導いている自分」に満足したいだけではないだろうか。 相手のキャパシティや、抱えている本当の課題を見極めずに投げ込まれたアドバイスは、狭い現場事務所を塞いだ「大量の水と麦茶の箱」と同じになってしまう。

何かアクションを起こすとき、俺たちは立ち止まって、自分を徹底的に客観視する必要がある。 「この行動の主語は、本当に相手になっているか?」と。

 

「ゼロから1」へ、掛け算のための足場

今回の件は、結果として苦いものになってしまった。 だけど、俺は彼女の行動をただ批判して終わらせるつもりはない。なぜなら、冒頭でも書いた通り、彼女の「何かしたい」という初期衝動そのものは、間違いなく本物で、尊いものだったからだ。

仕事でも、副業でも、あるいは今回のような社内の取り組みでも、何もない「ゼロ」の空間から「1」という行動を生み出すのが一番エネルギーがいる。 大半の人は、頭の中で「現場は大変そうだな」「何かしてあげたいな」と思っても、日々の忙しさに紛れて何もしない。その中で、実際に財布を開き、お店に足を運び、重い箱を運んだ彼女の行動力は、紛れもない「1」だ。

一度「1」にさえなれば、あとは軌道修正という名の「掛け算」ができる。 「次は事前に現場の声を聴いてから動こう」 「次は熱中症対策の現金を会社に寄付する形にしよう」 そうやって仕組みを整えていけば、彼女の高いエネルギーは、いつか本当に現場を救う大きな価値に変わるはずだ。

ゼロのまま文句を言う人間になるな。打席に立って空振りした人間を、ただ責めるな。 大切なのは、その打席を次にどう活かすかだ。

今週のオフィスは、少し気まずい空気が流れるかもしれない。 マネジャーとしての俺の本当の仕事は、現場の混乱をそっと収めつつ、彼女のプライドを傷つけないように「次回の正しいギブのアプローチ」へと、彼女の視点を優しく、かつロジカルに切り替えてあげることなのだろう。

よく冷えたオフィスのデスクで、そんなことを考えながら、俺は次のミーティングの資料に目を落とした。 今年の夏は、まだまだ始まったばかりだ。

 

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・総括】転んで、折れて、気づいたこと。

2023年10月の朝、俺はクロスバイクで転んだ。

右肩から地面に叩きつけられ、ただ空を見上げていた。痛みと困惑と、少しの情けなさ。あの朝の記憶は、2年近くが経った今も、妙に鮮明だ。

まさかその転倒が、これほど長い旅の始まりになるとは、思っていなかった。

粉砕骨折、緊急手術、三角巾での職場復帰、凍結肩、抜釘手術、週3回のリハビリ、ブロック注射、症状固定。書き並べると、我ながらなかなかの道のりだ。しかしその道のりを歩き終えた今、俺の中には後悔より先に、得たものの重さを感じている。

折れた鎖骨が、俺に教えてくれたことがある。

 

健康は、失って初めて分かる

当たり前のことを言う。

健康は、何ものにも代えがたい。

しかしこれは、骨折する前の俺には、本当の意味では分かっていなかった言葉だ。頭では知っていた。「健康第一」という言葉を、どこかで聞くたびに「そうだな」と思っていた。しかし腹の底から、身に沁みて理解していたかというと、正直なところ怪しい。

骨折して初めて、俺は「自由に動く身体」というものの価値を知った。

利き腕が使えない。書類にサインできない。ペットボトルのキャップが開けられない。食堂のトレーが両手で持てない。それまで1秒もかからずできていたことが、片っ端からできなくなる。その一つひとつが、じわじわと堪えた。

身体が動くということは、選択肢があるということだ。

動けるから、仕事ができる。動けるから、家族と出かけられる。動けるから、好きなことができる。骨折前の俺にとって「動ける身体」は空気のようなものだった。意識しなくてもそこにあり、なくなって初めてその存在を知る。

入院中に病室の窓から外を眺めながら、たった4日でこれほど世界が遠くなるのかと思った。退院の日、自動ドアをくぐって外の空気を吸ったとき、ありふれた景色がやけに眩しかった。あの感覚を、俺はたぶんこの先も忘れない。

身体を労ること。無理をしないこと。定期的に休むこと。それらは「できれば良いこと」ではなく、すべての土台だ。仕事も、家族との時間も、趣味も、健康という基盤の上にしか成り立たない。そのことを、俺はこの2年間で骨の髄まで学んだ。

 

仕事は一番ではない。でも、大切な部分だ。

骨折してから、俺は何度も「仕事より身体を優先すべきだった」と思う場面があった。

手術翌週に職場復帰したこと。抜釘手術の日程を仕事の都合で組んだこと。術後翌日にオンライン会議に出たこと。翌々日に三角巾で出勤したこと。傍から見れば無謀の連続で、「仕事の鬼」とか「サイボーグ」と呼ばれるのも無理はない。

しかし俺は、それらを完全に「間違いだった」とは思っていない。

仕事は、俺の人生の一番ではない。家族の方が大切だし、身体の方が優先される。それは疑いようのない事実だ。しかし同時に、仕事は俺の人生の中で大切な部分を確かに占めている。

オフィスに戻ったとき、俺は「俺でいられる」感覚があった。動けない身体でも、思考は動く。三角巾で吊った腕でも、言葉は出る。誰かの役に立てているという実感が、あの頃の俺を支えていた。じっと自宅で回復だけを待つより、不完全でも仕事の場にいることが、精神的な回復を助けていた面は確かにあると思う。

大事なのは、バランスだ。

仕事が全てになると、身体を壊す。しかし仕事を完全に切り離すと、俺という人間のある部分が死んでしまう。どちらに傾きすぎてもいけない。その綱引きを、この2年間ずっとやってきた。正解はないが、自分なりの落としどころを探し続けることが、40代という時期の仕事との向き合い方なのだろうと思っている。

仕事は一番ではないけれど、大切な部分だ。そのことを、サイボーグと呼ばれながら俺は確認し続けていた。

 

同じ出来事も、見る角度で変わる

骨折は、間違いなく「不運な出来事」だった。

しかし今の俺には、その出来事が別の顔を持って見える。

昇進の話を聞いたとき、骨折がなければ転勤していたと知った。今の部下たちとは出会えなかったかもしれない。三角巾で助手席に乗り込んだあの120キロの出張も、生まれなかった。骨折がなければ生まれなかった時間が、俺の人生にいくつも刻まれている。

見る角度を変えれば、同じ出来事が違って見える。

これは慰めや強がりではない。実際に、骨折という出来事は俺の人生の舵を動かした。それが良い方向だったのか悪い方向だったのか、今の俺には判断できない。しかし少なくとも、今の俺はここにいて、今の仕事があり、今の部下がいて、今の日常がある。それを幸せと呼ばずに何と呼ぶのかと、俺は思う。

リハビリの過程でも、同じことがあった。

「腹落ちしない診察室」が、伝え方を変えることで「腹落ちする診察室」になった。主治医は変わっていない。変わったのは、俺の視点と言葉の整理だけだ。同じ相手、同じ場所でも、こちらのアプローチ次第でまったく違う結果になる。

問題が起きたとき、まず「どう見るか」を考えること。

それはプレイングマネジャーとして部下と向き合うときにも、患者として医師と向き合うときにも、変わらない原則だと俺は思っている。現実は一つだが、解釈は無数にある。どの解釈を選ぶかは、自分次第だ。

 

人は、誰かに支えられて生きている

この2年間を振り返ったとき、一番強く残っているのは、支えてもらった記憶だ。

手術室で「終わりましたよ、よく頑張りましたね」と言ってくれた声。深夜の病室でパンプキンスープを勧めてくれた看護師さん。枕の角度をそっと整えてくれた人。黙って荷物を持ってくれた部下たち。毎週俺の肩と向き合い続けてくれたPTさん。最後の診察で「よく頑張った」と言ってくれたクリニックの医師。

そして、何度も迎えに来てくれた妻。

プレイングマネジャーとして、俺はいつも「守る側」にいるつもりでいた。部下を守り、チームを守り、家族を守る。しかしこの2年間の俺は、明らかに守られていた。ひとりでは、とても辿り着けなかった場所に、たくさんの人の手を借りて辿り着いた。

人は、誰かに支えられて生きている。

その当たり前のことを、42歳になって骨折してようやく、本当の意味で理解した。支えてもらうことは、弱さではない。支えを受け取れることもまた、人間としての力だと今は思う。

そしてそれを知った俺は、以前より少しだけ、周囲の人間に対して丁寧でいられるようになった気がしている。部下が助けを求めてきたとき、以前より素直に受け止められるようになった。「大丈夫か」と声をかけるタイミングが、少し早くなった。

骨折が、俺をそういう人間に変えたのだとしたら、それは悪くない変化だと思う。

 

転んで、折れて、今がある

2023年10月から2025年6月まで。

約2年間の記録を、この連載に書き留めてきた。痛みも、情けなさも、怠惰も、感謝も、全部ひっくるめて俺の話だ。

右鎖骨と右肩には、今も違和感が残っている。天気の悪い日は鈍く痛むし、とっさに出るのは相変わらず左手だ。完全には戻らなかった部分が、確かにある。しかしそれを含めて、今の俺だ。

折れた骨が教えてくれたことがある。

健康は、すべての土台だということ。仕事は大切だが、一番ではないということ。見る角度を変えれば、不運も別の顔を持つということ。そして人は、誰かの支えなしには生きていけないということ。

これらは、骨折しなくても頭では知っていたことかもしれない。しかし知っていることと、身に沁みて分かることの間には、大きな距離がある。俺はその距離を、右肩で埋めた。

転んで良かったとは、さすがに言えない。

しかし転んだからこそ、今の俺がいる。そのことは、胸を張って言える。

 

あの朝のクロスバイクに、今なら少しだけ感謝している。

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・番外編】サイボーグ、再び現る

伝説というのは、一度では作られない。

積み重なって、初めて伝説になる。俺が「サイボーグ」と呼ばれるようになったのも、そういうことだったのだと思う。

 

抜釘手術、翌日の話

2回目の手術が終わった翌日。

主治医に頼み込んで退院を一日前倒しにした俺は、自宅のソファに座っていた。右腕は三角巾で吊られ、手術の傷口はまだじんわりと熱を持っている。前日まで全身麻酔で手術台に乗っていた人間の、正しい翌日の過ごし方だ。

テレビを見るでもなく、ぼんやりとスマホを眺めていた。

そのとき、会社のチャットに通知が入った。

「緊急の会議を開催します」

俺の指が、止まった。

内容を確認すると、確かに緊急だ。俺が関わっている案件で、早急に方針を決めなければならない話が動いていた。オンラインで開催されるという。参加者のリストに、俺の名前はなかった。当然だ。昨日まで手術していた人間に、声をかける方がおかしい。

しかし俺は、数秒考えた。

家にいても、することがない。案件の詳細は把握している。むしろ俺がいない方が、話が余計にこじれるかもしれない。三角巾で吊った右腕を見下ろして、俺はスマホを置き、PCを開いた。

 

会議室に、亡霊が現れる

会議のチャネルに、俺はそっと入室した。

次の瞬間、画面の向こうで複数の気配が固まるのが分かった。

「……え」「あれ」「●●さん?」

驚嘆というより、困惑に近い反応だった。それはそうだろう。昨日、全身麻酔で手術を受けていた人間が、翌日にオンライン会議に現れたのだ。幽霊を目撃したときの反応に、近かったかもしれない。

俺はごく普通に挨拶をして、議題に入った。

「昨日手術やったんちゃうの」という声に、「そうですよ」と答えた。「なんで出てるんですか」という問いに、「家にいても暇なので」と答えた。それ以上の説明は、特にしなかった。説明できるような合理的な理由が、自分でもよく分からなかったから。

会議は、滞りなく終わった。

 

翌日、三角巾で出勤

そして翌朝。

俺は三角巾で右腕を吊ったまま、いつも通りの時間に出勤した。いつも通りデスクに座り、いつも通りPCを開き、いつも通り仕事を始めた。

フロアがざわついた。

「昨日オンラインで見たときも驚いたのに」「今日も来るんですか」「手術したんですよね、骨折の」。反応はさまざまだったが、共通していたのは全員が「信じられない」という顔をしていたことだ。

俺としては、至って普通のことをしているつもりだった。

家にいても傷口が治るわけではないし、身体を動かさない方が精神的にきつい。仕事ができる状態なら仕事をする。それだけの話だ。しかし傍から見ると、全身麻酔の手術翌々日に三角巾で出勤してくる上司というのは、やはり相当に異様な光景らしかった。

「サイボーグですね」

誰かがぽつりと言った。

職場復帰のときに生まれたその異名が、抜釘手術を経て、より確固たるものとして俺に定着した瞬間だった。

 

サイボーグの、正体

少し真面目な話をすると、俺は別に「仕事の鬼」を演じているわけではない。

休むべきときに休むことの大切さは、この2年間で身に沁みて学んだ。無理をすれば身体にツケが回ってくることも、ちゃんと知っている。凍結肩というかたちで、実際に払わされたから。

ただ、俺という人間は、どうやら「動いている方が楽」という構造をしているらしい。じっとしていると余計なことを考える。身体が動かせないなら、せめて頭を動かしたい。仕事をしているとき、俺は俺でいられる。それだけのことだ。

サイボーグと言われるたびに、苦笑いをしながら、少しだけ誇らしい気持ちもある。褒め言葉として受け取っているわけではない。ただ、それが俺だという感じがするのだ。

チタンのプレートは身体から取り出した。しかしサイボーグの異名は、まだ俺の中に残っている。

そしてたぶん、これからも。

 

終わりに

長い連載だった。

2023年10月の転倒から始まり、手術、入院、職場復帰、凍結肩、抜釘、リハビリ、症状固定まで。書きながら、あの頃の記憶がずいぶん鮮明に蘇ってきた。痛みも、不安も、情けなさも、そして支えてもらった温かさも。

読んでくださった方に、何か一つでも「そういうこともあるんやな」と思ってもらえたなら、それで十分だ。

骨折してから2年近くが経った今も、右肩はたまに鈍く痛む。しかし俺は今日も、いつも通りの時間に出勤して、いつも通りデスクに座って、コーヒーを飲んでいる。

 

まぁ、人生こんなもんだ。

 

【連載:鎖骨骨折からの復活、完】

 

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・第3回】症状固定という名のゴールテープ

ゴールテープというのは、いつも鮮やかに切れるわけではない。

気づいたら、もうそこを過ぎていた。そういうゴールの切り方も、あるのだと知った。

 

「そろそろ」という言葉

2回目の手術から10か月が経った頃の診察で、主治医がこう切り出した。

「そろそろ症状固定をしてもいいかもしれませんね」

予感はあった。リハビリの進捗が、ある時期から「劇的な変化」より「緩やかな維持」に変わっていた。PTさんとのセッションでも、新しい動きを獲得するというより、現状を丁寧に整えていく感覚が増えていた。身体が、ゴールに近づいていることを、言葉より先に知っていたのだと思う。

それでも、実際に主治医の口から「症状固定」という言葉を聞いたとき、俺の中に「ついに来たか」という感覚が静かに広がった。

完全に元通りにはならない。

その覚悟は、骨折した日からずっと持ち続けていた。あれだけの大怪我だ。粉砕骨折した鎖骨、損傷した靭帯、凍結した肩関節。それらがすべて受傷前と同じ状態に戻ることは、最初から期待していなかった。頭では分かっていた。

それでも、やはり「終わり」を告げられることには、独特の重みがあった。

 

折り合いのつけ方

少し考えて、俺は自分なりの答えを出した。

世間には「四十肩」というものがある。40代になれば、肩の違和感や痛みと付き合っている人間は珍しくない。特別な怪我をしていなくても、身体はどこかしら経年劣化していく。俺の右肩の状態を、その延長線上に置いてみれば、気持ちに折り合いはつけられる。

怪我をしたから不自由なのではなく、40代の身体として付き合っていく。

そう考え直すだけで、不思議と気持ちが軽くなった。プレイングマネジャーとして、仕事でも「問題の捉え方を変える」ことで突破口が開けることがある。身体のことも、同じだった。あとは日にち薬と、俺自身の気持ちの持ちよう。それだけだ。

6月中の治療で、症状固定することを決めた。

 

最後の診察

リハビリをしていた整形外科クリニックでの、最後の診察。

担当医は俺の肩の状態を丁寧に確認したあと、こう言った。

「よく頑張ってリハビリしたね。この骨折を考えれば、かなり良い状態まで回復したといえるよ」

その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ自分のことをほめたくなった。

振り返れば、長い道のりだった。骨折から始まり、緊急手術、三角巾での職場復帰、リハビリをサボって凍結肩になり、クリニックに通い始め、抜釘手術、ブロック注射、そして週に何度も繰り返したリハビリ。事故から症状固定まで、およそ2年近くの時間がかかった。

その間、俺を支えてくれた人たちの顔が、ひとりひとり浮かんだ。

手術室の看護師さん、パンプキンスープを勧めてくれた人、深夜に枕を整えてくれた人。毎週俺の肩と向き合い続けてくれたPTさん。黙って荷物を持ってくれた部下たち。骨折した上司を迎えに来てくれた妻。

ひとりでは、絶対に辿り着けなかった場所だ。

「ありがとうございました」

診察室を出るとき、俺は深々と頭を下げた。

 

今も残る、右肩の記憶

症状固定から時間が経った今も、右鎖骨と右肩には違和感がある。

天気が悪い日や、湿気が高い日は、どこか鈍痛が走る。いまだに、とっさに何かを取ろうとするとき出るのは右手ではなく左手だ。長年の習慣が戻りきらない、というより、身体が無意識に右肩をかばい続けているのだろう。

しかしそれも、俺の身体だ。

人生40年以上生きていれば、どこかしら身体にガタは来る。膝が痛い人もいれば、腰が曲がらない人もいる。俺の場合がたまたま右肩だったというだけのことで、この先もずっと付き合っていくしかない。

まぁ、こんなもんだ。

そう思えるようになるまでに、少し時間がかかった。しかし今はそれで十分だと思っている。完璧な身体を取り戻すことより、今ある身体と上手く付き合っていくことの方が、ずっと大事なことだと気づいたから。

 

あの朝のクロスバイクに、今なら言えること

2023年10月の朝、俺はクロスバイクで転んだ。

右肩から地面に叩きつけられ、激痛の中で俺はただ途方に暮れていた。なんでこんなことになったのか。なんでよりによって今なのか。理不尽さと痛みだけが、あの朝の記憶だ。

しかし今なら、あの朝のことを少し違う目で見られる。

骨折がなければ、転勤していたかもしれない。今の部下たちと出会えなかったかもしれない。三角巾で助手席に乗り込んだあの120キロの出張も、深夜の病室でパンプキンスープを飲んだ夜も、懸垂バーにぶら下がって「医学って凄い」と感じたあの瞬間も、なかった。

すべての出来事は、つながっている。

あの転倒が俺の人生の舵を切り、今の俺がここにいる。そう思いたいし、そう思うことにしている。右肩の鈍痛が走るたびに、俺はあの朝を少しだけ思い出す。そしてまぁ、悪くない人生だと、静かに思う。

それで十分だ。

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・第3回】ブロック注射と、腹落ちした診察室

以前、この連載で「腹落ちしない診察室」という話を書いた。

月に一度の主治医の診察で、原因不明の激痛について聞くたびに、俺が求める「なぜ」への答えは返ってこなかった。様子を見ましょう、リハビリを続けてください。その繰り返しに、静かにヤキモキし続けていた日々の話だ。

あれから時間が経った。

同じ診察室で、俺は少しだけ違う景色を見ることになる。

 

月一の診察と、積み上げた報告

抜釘後も、月に一度は手術をした病院で主治医の診察を受けていた。

リハビリを頑張っていること。可動域が少しずつ広がっている実感があること。それでもまだ、動かすたびに痛みが残っていること。毎回、その3点を整理して診察室に持ち込んだ。

以前の俺は、診察室で「答え」を求めていた。なぜ痛いのか、いつ治るのか、何をすれば良くなるのか。しかし今の俺は少し違った。答えを求めるより、現状を正確に伝えることに集中していた。管理職として部下の状況を上司に報告するときと、構造は同じだ。感情より事実を、曖昧さより具体性を。

主治医も、以前より話しやすそうに見えた。

こちらの伝え方が変わったのか、それとも長い付き合いで互いに慣れてきたのか。おそらく両方だろう。

 

エコーと、針と、ブロック注射

術後3か月ほど経った診察で、主治医が切り出した。

「一度、注射を打ってみましょうか」

ブロック注射というものだった。エコーで患部を確認しながら、痛みが出ている部位まで直接針を刺し、液を注入する。そうすることで炎症が抑えられ、痛みがしばらく治まる。その間にリハビリをしっかり行い、可動域をさらに広げていくという作戦だ。

説明を聞いて、俺は少し身構えた。

エコーを見ながら針を刺す、という響きが、なんとも物騒に感じられたからだ。しかし主治医の「やってみる価値はありますよ」という言葉は、以前の「様子を見ましょう」とは明らかに質が違った。具体的な手立てが示されることの安心感というのは、こういうことかと思った。

処置は、思ったよりあっけなかった。

患部にエコーを当てながら針の位置を確認し、ゆっくりと液を注入する。じんわりとした圧迫感はあったが、恐れていたほどの痛みではない。数分で終わった。

 

プラシーボかもしれない。それでも。

効果は、思いのほか早く現れた。

注射を打った翌日のリハビリから、明らかに動かしやすくなっていた。あれだけしつこく居座っていた痛みが、すっと引いている。PTさんも「動きが全然違いますね」と言った。

正直なところ、プラシーボ効果の可能性は否定できない。

「注射を打った」という事実が俺の心理に作用し、「痛みが治まるはず」という思い込みが身体の感覚を変えた、という可能性は十分ある。医学的に効いたのか、気持ちが先に動いたのか、今でも分からない。

しかし、どちらでも構わないと思っている。

結果として、その後のリハビリを俺は今までで一番頑張れた。腕が上がるたびに走っていた鋭い痛みが鈍くなり、PTさんの指示に対して「無理です」と言う回数が減った。痛みに怯えながら動かすのと、「大丈夫なはず」という感覚で動かすのとでは、積み重なる結果が全然違う。

たった一本の注射が、俺のリハビリを一段引き上げた。

 

腹落ちした、あの日の診察室

ブロック注射を打ってから数週間後の診察で、主治医に経過を報告した。

痛みが和らいだこと。リハビリの質が上がったこと。可動域が着実に広がっていること。主治医は頷きながら聞き、「それは良かった」と言った。その言葉が、以前と違って素直に耳に入ってきた。

以前の俺は、診察室で「答えが返ってこない」ことにヤキモキしていた。しかし今思えば、あの頃の俺は「聞き方」も「伝え方」も、整理できていなかった。痛みと不安を抱えたまま診察室に入り、漠然とした不満を漠然とした言葉で伝えていた。それで腹落ちする答えが返ってこなくても、当然といえば当然だった。

医師も人間だ。

こちらが具体的に伝えれば、具体的に返せる。関係性は、一方的に作られるものではない。プレイングマネジャーとして、部下とのコミュニケーションで何度も実感してきたことを、俺は診察室でようやく実践できていた。

腹落ちしない診察室は、気づけば腹落ちする診察室になっていた。

変わったのは主治医ではなく、俺の方だったのかもしれない。

 

次回「症状固定という名のゴールテープ」へ続く。

 

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・第3回】痛みと、ルーズ感と、それでも動かした肩

今度は、逃げない。

2回目の手術を終えた夜、ぼんやりとした意識の中で、俺はそう決めていた。

 

手術2日目、リハビリ初日

抜釘手術の翌日、担当の理学療法士さんが病室に来た。

1回目の手術後、俺はリハビリの恐怖から目を背け続けた。骨折直後の激痛が条件反射のように蘇るたびに、腕を動かすことにブレーキをかけた。その代償が、凍結肩だった。あの苦い経験が、今回の俺を動かしていた。

多少痛くても、動かす。自分の身体を甘やかさない。

そう決めていたにもかかわらず、リハビリ初日は想定外の連続だった。

まず、痛みだ。内視鏡で肩関節周りの関節包の癒着をすべて切除しているのだから、当たり前といえば当たり前だ。しかし頭で分かっていても、実際に腕を動かすたびに走る痛みは、覚悟の上を軽々と超えてきた。

そして次に、ルーズ感。

癒着していた組織がすべて取り除かれた肩は、まるで関節が「空洞になった」ような、頼りない感覚があった。プレートが入っていたときの「固定されている重さ」とも、凍結していたときの「動かない重さ」とも違う。グラグラとまでは言わないが、どこか心もとない。

担当のPTさんは、俺の肩の状態を確認しながら、少し頭を抱えていた。

術前に組んでいたリハビリのプログラムが、ほとんどできない。関節包を切除した直後の肩には、想定していた負荷をかけられる状態ではなかった。俺も、PTさんも、初日はお互いに現実を確認することで精一杯だった。

 

傷口とともに、落ち着いてきたもの

しかし身体というのは、日々変わる。

術後の傷口が少しずつ治癒していくにつれ、あのルーズ感は徐々に落ち着いてきた。肩が「自分のもの」として機能し始める感覚が、じわじわと戻ってくる。

そして何より、可動域が明らかに広がっていた。

プレートが入っていた間は、90度という物理的な上限があった。それが取れた今、腕が90度を超えて上がっていく。たったそれだけのことが、俺には小さな感動だった。毎週、毎回のリハビリで、昨日できなかったことが今日できるようになる。その積み重ねが、通い続ける理由になった。

1回目の手術後、自宅でリハビリをサボり続けた俺とは、別人のようだったと思う。あの凍結肩という代償が、俺を変えた。痛みから逃げることの方が、長い目で見れば何倍も辛いということを、身体で学んでいたから。

 

懸垂バーの、あの瞬間

可動域が戻るにつれ、自宅での筋トレも少しずつ再開した。

1回目の手術後は、90度以下でのダンベルトレーニングと脚を中心としたメニューしかできなかった。しかし背中を鍛えるには、どうしても懸垂が必要だ。肩を90度以上に挙上し、自分の体重を両腕で支える。骨折前は当たり前にやっていたその動作が、この1年近く、完全に封印されていた。

抜釘後、まずはチューブを使って90度以上の挙上動作に少しずつ負荷をかけていった。痛みを確認しながら、慌てず、しかし着実に。そして「いける」という手応えが積み重なってきた頃、俺は懸垂バーの前に立った。

両手でバーを握る。息を吸う。

そっと、体重を預けた。

骨折部位に、確かに痛みはあった。しかしそれは、「これは無理だ」という痛みではなかった。「まだ完全ではないが、耐えられる」という種類の痛みだ。骨折を経験した人間だけが分かる、あの感覚の違い。

ぶら下がりながら、俺は思った。

医学って、凄いな。

バラバラに砕けた鎖骨が元通りになり、固まりきった肩関節の癒着が切除され、チタンのプレートが10か月間骨を支え続けた。その積み重ねの果てに、今俺はここに立って、バーにぶら下がっている。当たり前のようにできていたことを、当たり前に取り戻すために、これだけの時間と医療と人の手が必要だった。

骨折した日から、どれだけの人に支えてもらっただろう。救急の医師、手術室の看護師たち、PTさん、職場の部下たち、そして妻。そのすべてが積み重なって、今この瞬間がある。

大げさかもしれないが、バーにぶら下がりながら、俺は本気でそう思っていた。

 

次回「ブロック注射と、腹落ちした診察室」へ続く。

 

 

【連載:鎖骨骨折からの復活・第2回】2回目の手術:チタンよ、さらば

人間、二度目というのは、妙に冷静になれるものだ。

手術室までの廊下を歩きながら、俺はそんなことを考えていた。

 

慣れた廊下、慣れたベッド

火曜日に入院し、水曜日が手術の日だった。

前回の入院と違うのは、心の準備が整っていることだ。あのとき俺は、転倒した翌日に緊急で病院へ向かい、気づけば手術の日程が決まっていた。右肩の激痛と混乱の中で、オペ室のベッドに乗せられた。正直、あの頃の記憶は所々霞んでいる。

しかし今回は違った。

オペ室までの廊下の長さ、天井の照明の並び方、手術台に移るときの微妙な高さの感覚。すべてがはっきりと、意識の中に刻まれていた。前回は恐怖と痛みで霞んでいた景色が、今回は驚くほど鮮明に見えた。

手術台に横たわり、麻酔の準備が始まる。

全身麻酔は2回目だ。「ゆっくり深呼吸してください」という声に従いながら、俺は静かに目を閉じた。前回のような「深い闇に引きずり込まれる」感覚を、今度は少しだけ余裕を持って迎えることができた。

 

チタンよ、さらば

意識が戻ったとき、最初に感じたのは「軽さ」だった。

正確には、何かが「ない」感覚だ。10か月間、鎖骨の下に居座り続けたフックプレートが、俺の身体から消えていた。骨と一体化していたわけではないのに、それでも「異物がある状態」に慣れきっていた身体は、その不在をちゃんと感じ取っていた。

不思議な解放感だった。

痛みはある。切開した傷口が熱を持っている。しかしあの「何かが引っかかっている」感覚が、きれいになくなっていた。マニピュレーション術で肩関節を動かしてもらった影響か、肩周りがじんわりと重い。しかしそれは「固まっている重さ」ではなく、「ほぐされた後の重さ」だと分かった。

10か月。よく頑張ってくれた。心の中で、チタンに向かってそう言った。我ながら、柄にもないとは思ったが。

 

病院食との、静かな攻防

術後の経過は順調だった。

病棟に戻り、夕食のトレーが運ばれてきたとき、俺の目に飛び込んできたのは、オレンジ色だった。

人参だ。

俺が人参を受け付けないのは、子供の頃からの話だ。あの独特の甘みと匂いが、どうしても駄目だった。1回目の入院では流動食から始まったため難を逃れたが、今回は普通食で始まった。トレーの上に堂々と鎮座する人参を見て、俺は静かにため息をついた。

翌朝の朝食にも、人参は現れた。

そして昼食のトレーを見た瞬間、俺は決意した。主治医に、退院の前倒しを依頼しよう。

もちろん、建前は「経過が順調なので」だ。実際、経過は順調だった。それは本当のことだから、嘘はついていない。主治医は少し考えてから「まあ、問題ないでしょう」と承諾してくれた。

予定より一日早い、木曜日の退院が決まった。

後日、この話を職場でしたとき、「人参から逃げたんちゃいますか」と噂されることになる。否定はしない。ただ、経過が順調だったのも本当のことだ。その両方が、同時に真実だっただけの話である。

 

帰り道の、右肩

妻に迎えに来てもらい、病院を出た。

前回の退院と同じように、自動ドアをくぐった瞬間に外の空気が肺に入ってくる。しかし今回は、あのときほど「世界が眩しい」感覚はなかった。4日間の入院に対して、10か月かけて俺は「日常」を取り戻していたから、当たり前の景色は当たり前に見えた。

それでも、車に乗り込んで右肩をシートに預けたとき、ふと気づいた。

プレートが入っていたとき、シートのわずかな圧力さえ気になっていた。しかし今は、何も感じない。ただ、肩がそこにある。それだけだ。

たったそれだけのことが、じんわりと嬉しかった。

人間の「普通」というのは、失ってみるまで分からない。健康も、自由に動く身体も、人参の入っていない食事も。当たり前だと思っていたものが、当たり前ではなかったと気づくとき、人は少しだけ豊かになれる気がする。

チタンのプレートは、10か月間俺の鎖骨を支え続けてくれた。そしてその役目を終えて、静かに去っていった。

 

次はいよいよ、本当の意味での回復が始まる。

【連載:鎖骨骨折からの復活・第3回】へ続く。