
ゴールテープというのは、いつも鮮やかに切れるわけではない。
気づいたら、もうそこを過ぎていた。そういうゴールの切り方も、あるのだと知った。
「そろそろ」という言葉
2回目の手術から10か月が経った頃の診察で、主治医がこう切り出した。
「そろそろ症状固定をしてもいいかもしれませんね」
予感はあった。リハビリの進捗が、ある時期から「劇的な変化」より「緩やかな維持」に変わっていた。PTさんとのセッションでも、新しい動きを獲得するというより、現状を丁寧に整えていく感覚が増えていた。身体が、ゴールに近づいていることを、言葉より先に知っていたのだと思う。
それでも、実際に主治医の口から「症状固定」という言葉を聞いたとき、俺の中に「ついに来たか」という感覚が静かに広がった。
完全に元通りにはならない。
その覚悟は、骨折した日からずっと持ち続けていた。あれだけの大怪我だ。粉砕骨折した鎖骨、損傷した靭帯、凍結した肩関節。それらがすべて受傷前と同じ状態に戻ることは、最初から期待していなかった。頭では分かっていた。
それでも、やはり「終わり」を告げられることには、独特の重みがあった。
折り合いのつけ方
少し考えて、俺は自分なりの答えを出した。
世間には「四十肩」というものがある。40代になれば、肩の違和感や痛みと付き合っている人間は珍しくない。特別な怪我をしていなくても、身体はどこかしら経年劣化していく。俺の右肩の状態を、その延長線上に置いてみれば、気持ちに折り合いはつけられる。
怪我をしたから不自由なのではなく、40代の身体として付き合っていく。
そう考え直すだけで、不思議と気持ちが軽くなった。プレイングマネジャーとして、仕事でも「問題の捉え方を変える」ことで突破口が開けることがある。身体のことも、同じだった。あとは日にち薬と、俺自身の気持ちの持ちよう。それだけだ。
6月中の治療で、症状固定することを決めた。
最後の診察
リハビリをしていた整形外科クリニックでの、最後の診察。
担当医は俺の肩の状態を丁寧に確認したあと、こう言った。
「よく頑張ってリハビリしたね。この骨折を考えれば、かなり良い状態まで回復したといえるよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は少しだけ自分のことをほめたくなった。
振り返れば、長い道のりだった。骨折から始まり、緊急手術、三角巾での職場復帰、リハビリをサボって凍結肩になり、クリニックに通い始め、抜釘手術、ブロック注射、そして週に何度も繰り返したリハビリ。事故から症状固定まで、およそ2年近くの時間がかかった。
その間、俺を支えてくれた人たちの顔が、ひとりひとり浮かんだ。
手術室の看護師さん、パンプキンスープを勧めてくれた人、深夜に枕を整えてくれた人。毎週俺の肩と向き合い続けてくれたPTさん。黙って荷物を持ってくれた部下たち。骨折した上司を迎えに来てくれた妻。
ひとりでは、絶対に辿り着けなかった場所だ。
「ありがとうございました」
診察室を出るとき、俺は深々と頭を下げた。
今も残る、右肩の記憶
症状固定から時間が経った今も、右鎖骨と右肩には違和感がある。
天気が悪い日や、湿気が高い日は、どこか鈍痛が走る。いまだに、とっさに何かを取ろうとするとき出るのは右手ではなく左手だ。長年の習慣が戻りきらない、というより、身体が無意識に右肩をかばい続けているのだろう。
しかしそれも、俺の身体だ。
人生40年以上生きていれば、どこかしら身体にガタは来る。膝が痛い人もいれば、腰が曲がらない人もいる。俺の場合がたまたま右肩だったというだけのことで、この先もずっと付き合っていくしかない。
まぁ、こんなもんだ。
そう思えるようになるまでに、少し時間がかかった。しかし今はそれで十分だと思っている。完璧な身体を取り戻すことより、今ある身体と上手く付き合っていくことの方が、ずっと大事なことだと気づいたから。
あの朝のクロスバイクに、今なら言えること
2023年10月の朝、俺はクロスバイクで転んだ。
右肩から地面に叩きつけられ、激痛の中で俺はただ途方に暮れていた。なんでこんなことになったのか。なんでよりによって今なのか。理不尽さと痛みだけが、あの朝の記憶だ。
しかし今なら、あの朝のことを少し違う目で見られる。
骨折がなければ、転勤していたかもしれない。今の部下たちと出会えなかったかもしれない。三角巾で助手席に乗り込んだあの120キロの出張も、深夜の病室でパンプキンスープを飲んだ夜も、懸垂バーにぶら下がって「医学って凄い」と感じたあの瞬間も、なかった。
すべての出来事は、つながっている。
あの転倒が俺の人生の舵を切り、今の俺がここにいる。そう思いたいし、そう思うことにしている。右肩の鈍痛が走るたびに、俺はあの朝を少しだけ思い出す。そしてまぁ、悪くない人生だと、静かに思う。
それで十分だ。